古代、大阪のほとんどは海でした。
長い年月をかけて、琵琶湖から注がれる淀の流れが土砂を運び、大阪の地を作ったのです。
歴史の中で、幾度も姿形を変えていった淀川。
理由の半分は、自然の猛威の歴史。
そしてもう半分は、人と淀川との闘いの歴史です。
|
都市を機能させるために、淀川の治水や改修に心血を注いだ豊臣秀吉。
度重なる淀川の氾濫を治めるべく、安治川を作った河村瑞賢。
淀川を、政治や産業の“動脈”として捉えた人々は、幾人にものぼります。
|
そして、時代は明治。
淀川に挑んだ一人のオランダ人が、大阪の、日本の近代化に大きく貢献したのです。
その人物の名前は、ヨハネス・デ・レーケ。
この時代、産業・経済を発展させるための鍵は水運。
|
当時、堺にあった大阪湾は使えなくなっていて、神戸に続く築港の機運が高まっていた。
しかし、田上山から淀川を経て流れてくる土砂は、長い年月とともに、当時の大阪湾を大きな外国船が通
れないほどに浅くしてしまったのです。
築港のために呼ばれたチッセン達は、土砂の流出を止める事から始めなければならないと判断し、デ・レーケらを呼び寄せた。
|
デ・レーケは砂防工事で植林を行い、上流の土砂が淀川に流失するのを防いだ。
さらにデ・レーケは、淀川の川底を浚渫するための新たなる工事方法をもたらします。
それが、粗朶沈床工法。
粗朶とは木の枝の事である。粗朶を沈めて水の流れを中央に寄せ、早くなった流れで土砂を運ばせた。
デ・レーケの書いた改修工事のための図面。
ここには、彼の苦悩と情熱が一つ一つの線となって表れています。
デ・レーケは、今日の淀川とわたしたちの暮らしをも見据えていたのかもしれません。
|