淀川資料館
 
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川づくり物語・淀川見学バスツアーの報告
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施設案内

1 木津川と流れ橋(上津屋橋(こうづやばし))
イベント報告
 木津川は、三重県上野盆地(上野市、名張市)方面 から流れてくる河川です。今でも自然が豊かに残る川で、河原・瀬・淵・水辺のある河川となっています。また宇治川、桂川と比べて砂が多いのも木津川の特徴です。
 以前は木津川でも交通手段としての渡し場が各所にあり、昭和28年に上津屋橋が架るまでは、「上津屋の渡し」が行なわれていました。
 この橋は府道八幡城陽線に架る橋となっています。日本で最も長い木造橋で356mの長さがあります。 洪水がおきた時は、流れること(すべて流れてしまうのではなく、橋の上部が外れてイカダみたいにつながって止まる)を前提に造られています。
この場所は映画の時代劇などのロケ地としてもよく利用されています。
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流れた後の上津屋橋
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▲流れ橋

2 三川合流点・背割堤
イベント報告
 この地点は、琵琶湖から流れてくる宇治川、京都府・亀岡市の方面 から流れてくる桂川、そして三重県上野盆地方面から流れてくる木津川と、三つの川が合流する地点となっています。
 ここには背割堤と呼ばれる堤防があります。これは洪水の時に水をスムーズに下流に流して横の河川に影響しないように築いた堤防です。 ここから下流が国営淀川河川公園で、背割堤を含むこのエリアは「景観保全地区」となっています。
 今は、この付近で三つの川が合流していますが、昔はこのあたりから上流にかけて、大池といわれる巨椋池(約800ha)があり、当時は宇治川、桂川、木津川がこの巨椋池に流れこんでから淀川となって流れていました。
 豊臣秀吉の時代には、伏見城を築城するにあたって、太閤堤なども築かれました(1590年代)。明治に入っても付替えが行なわれ、宇治川も明治の付替え前までは今の京阪淀駅・淀城跡がある北側を流れていました。
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八幡市付近 左より桂川・宇治川・木津川 桜が満開になる背割堤

3 淀川資料館
イベント報告
 淀川資料館は、新政府が明治7年に淀川改修に着手して100年の記念事業として、昭和52年にわが国最初の河川資料館として開館しました。 その後、平成10年にもっと親しみやすい資料館へと全面リニューアルを行い、たくさんの方々に利用していただいています。
 今回の淀川見学バスツアーは企画展「マンガで見る 淀川・川づくり物語 昔・今・明日展」の関連行事として企画しました。
資料館外観
▲淀川資料館外観

4 伊加賀地区スーパー堤防(高規格堤防)
イベント報告
 伊加賀地区スーパー堤防は平成11年に完成しました。 洪水でも壊れない堤防づくりとして現在進められています。
 また、この堤防は住んだり暮らしたりするのに景観や見晴らしもよく、ステキな街づくりも行えます。
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スーパー堤防
説明図

5 豊臣秀吉が築いた文禄堤
イベント報告
 昔、枚方から下流は湿地もあり、洪水のたびに氾濫していました。そのため、淀川の流路を固定する目的の連続堤防と川沿いの道を兼ねたものとして、豊臣秀吉により長さ約27kmにおよぶ文禄堤が築かれたといわれています(1596年)。
 水を治めるために先人が苦労して築いた堤防と、街道を兼ねたその一部が、京阪守口市駅前付近に残っています。

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道路の上をまたいでいるのが文禄堤 堤の上は歴史を感じる街道に


6 城北ワンド
イベント報告
 明治のはじめ、航路を確保するために水制工が造られました。この水制工は明治、大正、昭和23年頃まで施工されました。 それが残った場所が今はワンドと呼ばれて、淀川に棲む生き物にとっては、産卵したり、稚魚が暮らしたりするのによい環境となっています。
 当初、500個ほどあった水制工(ワンド)も、川を拡げる工事などにより大部分が消滅し、現在は7ケ所で約40個ほどになってしまいました。
 淀川に棲む魚類は60種類程度ですが、そのうち通常40種類ほどを見つけることができます。そのうちの多くがワンドで生まれ育っています。
 天然記念物に指定されているイタセンパラもこのワンドで見られます。 魚類のほかにも、水生植物、鳥類、昆虫、小動物など多種多様の生き物が暮し、育っています。

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建物屋上よりワンドをのぞむ 近くで見たワンド

7 淀川大堰、毛馬水門・毛馬閘門、毛馬排水機場とレンガ造りの旧毛馬洗堰(水門)・閘門
イベント報告
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毛馬施設

 新淀川の付替え(開削)にあたり、明治29年に初めて河川の法律を定めて、工事が行なわれました。守口付近から河口まで約16kmです。すべての工事が完成したのは明治44年のことでした。
 このとき、大川(旧淀川)へ普段の川の水を流すために毛馬洗堰と、大川から淀川へと船が出入りするための施設として毛馬閘門も造られました。この旧施設の毛馬洗堰(水門)、閘門はレンガ造りの立派な構造物で、今でも大変価値があるため、その一部が残されています。
 新淀川の付替えから、まだ100年も経っていませんが、その淀川も今は市街化された状況となっています。 昭和46年に洪水の流せる量を6950トンから12000トン流せるよう河道整備をすることになり、昭和58年に新しい淀川大堰・毛馬水門・毛馬閘門が完成しました。
 毛馬排水機場は、洪水や高潮の時に寝屋川の洪水が大阪市内(大川)に流れてきたり、高潮の時に河口にある安治川等の水門を閉めた場合に、この排水機場のポンプにより淀川本川へと排水を行なうために、昭和56年完成しました。


【ふだんは】
淀川の水はゆるやかに流れ、魚道ゲートや調節ゲートで水を大阪湾に流したり、毛馬水門を開けて水を大川に流したりします。
ふだんは
【大川が洪水の時】
毛馬水門を閉めて毛馬排水機場のポンプを動かし、大川にたまった水を淀川に排水します。
大川がこう水の時
【淀川が洪水の時】
大堰はゲートを上げて、いっきに洪水を大阪湾へ流します。
淀川がこう水の時
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